元NHKの新人カメラマン

東日本大震災から10年

東日本大震災 から10年が経ちました。

その当時震災の様子を撮影をしていた、元NHKの新人のカメラマンの記事を見つけました。

鉾井喬(ほこい・たかし)さんという人です。

現在は、NHKを離れ、現代アーティストとして福島にもアトリエを構えています。

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鉾井さん、地震にあうも離陸

10年前、鉾井さんは入社一年目で、NHK福島放送局の報道カメラマンでした。

その日がまだ5回目のフライトでした。

地震が発生した午後2時46分、鉾井さんは、ヘリコプターで取材を担当する当番勤務である仙台空港にいました。

格納庫で、まだ不慣れだったへりのカメラ操作を練習していた時、ドーンと下から突き上げられる揺れに襲われました。

あまりの揺れに体が座席から放りだされそうにりましたが、近くにいた整備士が腕をつかんで、引っ張り出してくれました。

目の前のヘリは、上下左右に揺れ続けていましたが、鉾井さんは、たまたま点検があり、機体の半分を外に出していました。

建物内に止めていた他社のヘリの中には、揺れで機体同士がぶつかり、壊れているものもありましたが、鉾井さんは離陸できました。

被害を免れたNHKのヘリに乗り込んだ鉾井さん、混乱の中、離陸しました。

 

 

 

 

 

 

黒い塊になった津波 

離陸直後、窓ガラスが割れているなどの被害はあったが、上空から見る仙台の街は、いつもと変わらない様子でしたが、沿岸部で見たものはまったく違い、平野を這うように進む黒い塊となった津波でした。

黒い塊になった津波は、容赦なく家や車を飲み込んでいき、津波の渦に別の角度から来た津波が重なり、さらに大きな塊となって襲い掛かっていました。

木材、船、瓦礫、あらゆるものが簡単に押し流されていきました。

鉾井さんは理解が追いつきませんでしたが、映像は生中継されていました。

生きている自分の足の下で、街や人や車が、次々と津波に飲み込まれていきました。

「(映像を)アップにしてはいけない」、手が小刻みに震えていました。

 

 

 

 

 

 

 仙台空港にも3メートルもの津波

「生と死」、自分が置かれていた状況を整理できたのは、撮影を終えて着陸し、数時間たってからでした。

出発した仙台空港にも、3メートルを超える津波が押し寄せていました。

あの場に留まっていたら、自分の命もなかったかもしれませんでした。

あの日、報道機関で津波の映像を空から中継していたのは、鉾井さんだけでした。

鉾井さんの映像は「スクープ」として世界中を駆け巡りました。

 

 

 

 

 

 

 

 赤いランプの列

鉾井さんにはあの日、もう一つ忘れられない光景がありました。

仙台空港には戻れなくなったため、福島空港に着陸し、別のカメラマンと交代し、NHK福島放送局に車で戻っていた時のことでした。

国道4号線は渋滞していて、途中から進めなくなった時、ふと横を見ると、並走する東北自動車道ににぼんやりと浮かぶ赤いランプの列がありました。

夜が明け、ようやく福島市内に入った時、交差点で、消防車の集団とすれ違いました。

そこで初めて、赤いランプが全国各地から沿岸部へと向かう消防隊なのだと知ったのです。

 

 

 

 

 

 鉾井さんの違和感

「沢山の人が亡くなっている中で、自分は、一番安全な場所にいて、撮影をしただけだ」。

映像が数々の賞を受賞するたび、葛藤は大きくなっていきました。

また、被災地と東京を行ったり来たりするうち、「安全圏」にいる自分に、違和感が芽生えていきました。

「報道は、“正しいこと”を伝えなければいけない。でも、時にその“正しさ”が、今の福島にとって受け止めきれる“正しさ”なのか…。誰にとっての“正しさ”なのか…」取材で顔なじみになった福島の人たちが、国や報道機関などが出す“正しさ”に幾度も振り回される様子を目の当たりにして鉾井さんは困惑していました。

 

 

 

 

 

 

鉾井さんの葛藤 

鉾井さんもいつか転勤をして福島を去るときが来ます。

今は目の前にある問題も、いつか他人事にできてしまいます。

津波を撮影した日と同じように、守られた場所にいるような気がしていました。

もう少し自分の目で福島を見て、考えながら生きていきたい」と、鉾井さんは、震災発生から2年後にNHKを辞めました。

鉾井さんは、もともとはアートを学んでいました。

「アートは、作品を受け取った人それぞれが、いろんなことを考えればいい。今の福島に必要なのは、“正しさ”を押し付けるよりも、考えるきっかけを投げかけ続けることだ」そして「一人のアーティストとして、自分は、過去の体験や気持ちを作品に込めていく。その創作の過程で、葛藤を整理できることで作品が生まれたり、作品が生まれることで葛藤に整理ができるたりすることもあるかもしれない

鉾井さんは、今も葛藤を抱えて生きています。

 

 

 

 

 

 

ラサール石井

ラサール石井氏が、何かと保守にかみついていたのに、あれからとても静かになっています。

私が気がつかないだけなのかもしれませんが……

私が知っている限りでは、あれから保守に何もかみついていません。

私が言うあれからというのは、春馬さんが亡くなって二週間もしないうちに、「罪と罰」の舞台の共演者が偲ぶ会と称して行っていた食事会です。

実際は春馬さんへの寄せ書きを中心にピースをしていた笑顔の写真の件です。

 

 

 

 

 

 

 

 春馬さんを偲ぶ会?

あれは、はるまさんのファンでなくても非常識だと思うと思います。

ピースをしているのは、お店の人だから、とか本人たちに代わって弁解をしている記事も見かけましたが、でも、他の人は笑顔でしたよね。

あの後炎上して、お店はサッサとあの写真を削除しました。

でも、あの写真は拡散されているので、今でも見ようと思えば見ることができます。

そのうえ、あの場にいたカッチン(勝村正信氏)は、謝罪文をだいぶたってから出しました。

あれは、謝罪文というより言い訳文でした。

僕はそんなつもりじゃなかった、ってね……

 

 

 

 

 

 

 カッチンの顔も見たくない

そして、カッチンの顔も見たくない、などと言われ、ドラマも多分いくつか断られたのではないか、と思われます。一番言われているのが、あのおぞましいドラマの「カネ恋」にも幻の上司として出演していたのではないか、と言われています。

私も多分そうではないか、と思っています。あのドラマは出演者のほとんどが反日ではないか、と私は勝手に想像しています。

 

 

 

 

 

 

 ラサール石井氏、日本の言論の自由に守られていた

ラサール石井氏はそれを見ていたのでしょう。

それからだと思いますが、私の知っている限りでは、あれほど保守にかみついていたのに、一切何も言わなくなりました。

あんなに偉そうに言っていたのに、この程度のことなのですね。

結局は、偉そうなことを並べても、日本の言論の自由に守られていたから、自由にモノが言えていたわけです。

 

 

 

本人は、そのことに気がついていればいいのですが……

たぶん気がついていないでしょうね……