歎異抄の「悪人正機説」を考えてみる

 

悪人正機説」の解釈

歎異抄の中にある「善人を持て往生をとぐ、いわんや悪人をや」という一説がありますね。

あれにはいろんな解釈があるようですが、最近とっても納得できる解説を見つけました。

 

 

 

面白い解説がありました

ちょっと長くなりますが、書きますね。

平安時代末期の念仏というのは、観想念仏(かんそうねんぶつ)でした。

観想念仏とは、極楽に似せた寺院を建て、阿弥陀仏の掛け軸や仏像を安置し極楽浄土にいるという観想をしながら成仏を目指すというものでした。

つまり、悪人正機説でいう「善人」とは、当時の観想念仏ができる寺院を建てたり仏像を建てたりできる、貴族や富裕階級のことをいいました。

ところが、法然や弟子の親鸞は、それは違う、阿弥陀如来の18番目の願目「弥陀の名前を三度唱えれば誰でも極楽浄土に行ける」阿弥陀如来は仰ったから、正しい念仏は阿弥陀如来の名前を三回唱えれば誰でも成仏できるはずと解釈しました。

ここでいう「悪人」とは、寺院も建立できない武士、漁師や猟師のような殺生を生業としている庶民のことをいいます。

つまり「観想念仏」ができない人々を、悪人と言ったわけです。

そこで「善人」が成仏できるなら「悪人」はなお成仏できるだろうという「悪人正機説」が唱えられるようになったのです。

という説を読んで私の中にこの説が、すとんと入ってくる感じがしました。

 

 

 

歴史を考えるときの注意

過去のことを今の価値観で考えてはいけないと言います。

これは、その言葉にぴったりの言葉だと思います。

その時代その時代の考え方、価値観があります。

歴史を見るときそこがとっても大事なんですね。

 

 

 

昔の武将は敵の大将の首を持って帰る

以前に新聞の小説を読んでいた時、戦国時代の武将だったと思いますが、戦いが終わって勝ったお祝いをしているとき、その当時は、敵の大将の首が酒の肴だったと読んだ記憶があります。

それを読んだ時、身震いをするほど気持ちが悪くなったのを覚えています。

 

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第二次世界大戦でも戦利品として持ち帰った

その後、つい最近まで敵の大将でなくても、敵の兵隊さんの持ち物を戦利品として持って帰るのが、普通にあることを知りました。

だから、時々大二次世界大戦の時にアメリカ兵士だった人が、日本の兵士の持ち物を持って帰ったけれど、日本人の家族に返したいという話を読んだり、聞いたりしますよね。

あれもそうですね。

 

 

たぶん、そういうことは今はもうしないのでしょうね。

時代とともにいろいろなことが変わります。

歴史を学ぶときは、その辺を注意して勉強するとまた面白いかもしれませんね。