母の言っていたこと

私が小学校中学年の頃母とよく話しました。

私の母が亡くなって丸3年が経ちました。

母は生前、私が小学校中学年くらいの頃が一番話したと思います。

母は、5人の子供を育て上げ舅姑に尽くし、夫である父も亭主関白で、大変な結婚生活だったけれど、私が小学校中学年の頃が一番気持ちに余裕ができたころだったんでしょう。

よくいろんなことを話してくれました。

 

 

 

 母は、日本に誇りを持っていました。

母は、日本という国に誇りを持っていました。

当時もアメリカのものが色々と沢山入ってきましたが、英語自体が落ち着きのないせわしない言葉だといっていました。

そして、歌もあんなに体を無駄に動かして、みっともないとも言っていました。

 

 

 

教育勅語をよく暗記していました。

私は、母がよく教育勅語を暗記していたわりりには、内容はほとんど覚えていません。

今になって見ると、ごく当たり前のことを書いてありました。

戦争と結びつける人もいるけれど、中身を見ると全く関係のないことがわかります。

父母に孝行をして、兄弟仲良く、夫婦は仲むつかじくというようなことが書いてありました。

どこかの国のように幼い子によその国を憎んだり、恨んだりすることを教えることはしていません。

 

 

 

 

よく軍歌をうたっていました。

今ではほとんど聞かれなくなりましたが、私が20代の頃は普通に年配の人たちは歌っていました。

よく歌っていたのが、♫ここはお国を何百里♫ と歌っていました。

この歌を今の年になった私が、読んでみると、とっても悲しくつらい歌です。

一緒に戦ってきた戦友が、敵の球に打たれ倒れたけれど、助けることもできず戦友に早くいけと言われ後ろ髪を引かれる思いで後にしたつらく悲しい歌です。

戦争の残酷さをよく表しているともいます。

母はどんな思いで歌っていたのかは、今はわかりませんが……

 

 

伯父の赤紙に全身が震えたそうです。。 

太平洋戦争の頃、近所のおばさんが息子に赤紙が来たと真っ赤な顔をして言っていたそうです。

おばさんは、「こんな戦争なんかやめてしまえ!」と言っていたそうで、その時は母は内心「なんて非国民な」と思ったそうですが、その後、母の長兄である伯父に赤紙が来たとき頭が真っ白になって全身震えが来て何も考えられなくなったそうです。

あの時のおばさんの気持ちがわかったといっていました。

今は日本は自衛隊はありますが、軍隊はなく、徴兵制もありません。

私にも息子が2人いますが、軍隊にはやはり正直行かせたくはありません。

そうかと言っても、尖閣諸島付近には中国船がウロウロしているし、北朝鮮はミサイルをドンパチやっているし、韓国は日本を敵認定しているし、最近の日本付近は穏やかではありません。

戦争って、喧嘩と同じでこちらが戦う気がなくてもあちらが敵だと思って攻撃してきたら、迎え撃つしかありませんしね。

難しいですね。